令和7年3月15日 乙川まつり 始楽編 その1

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今回の記事は令和7年3月15日の愛知県半田市の乙川まつりの様子をお伝えします。初乙川です。かなり前からホテルを予約して2泊3日で行ってきました。前日の14日に現地入りしました。昨年より肉スタグラマ(@29syuichi)を始めました。全国のブランド牛の食べ歩きをしています。この日は愛知県のブランド牛である知多牛の上ヒレとサーロインをいただきました。シャトーブリアンを食べたかったのですが品切れでした。残念。

最初にサーロインを焼いて

その油を使って野菜と上ヒレを焼いて食べました。

もちろん美味しかったです。昨年11月から食べ始めてこれで9都道府県目のブランド牛を食べました。5年以内に全国制覇を目指します。この後、祭り前日の雰囲気を味わえるかもしれないと聞き乙川の町を歩いてみましたが、20時を過ぎていたからか私の探し方が悪いのか祭りの雰囲気を味わえる光景は発見できませんでした。

翌日は地区によって違いますが、集合は2時とか4時のようですが、さすがにそんな時間にはよう行かないので、6時30分くらいから乙川八幡社や若宮の辺りをうろつきました。初めてくる土地、しかも「やまもと」と呼ばれる関係者の家から出発するらしいのですが、さっぱりわかりませんでした。若宮近くで1台発見しました。西山のようです。

7時頃からお祓いが始まりました。

水引幕「日の出に鶴」

西山では中老と若衆行事が赤法被を着るそうです。(といってもその役職が何なのかは知らないのですが・・・。こちらでいう曳行責任者とか若頭責任者みたいなものかな?)

山車の四方を清めます。人物と比較するとその大きさがわかりますよね。北河内型のだんじりよりもかなりでかいようです。

お祓いが終わったあと浅井山の山車が近くにいると思い探しました。

駒の跡や

張り紙を元に近くを探しましたが浅井山の山車を見つけられず。

浅井山を探すのを諦めて乙川八幡社に向かいました。この辺りに南山と西山がいるはずです。鳥居横に南山の鞘(泉州で言うところの小屋)があり、南山はそこにいました。

檀箱と呼ばれる部分の彫刻は「桃園の三傑」で初代彫常作だそうです。

大正6年製作だそうです。素晴らし彫り物ですね。

出発前、山車の後ろで酒を飲んでました。

8時少し前、お囃子が始まりました。

泉州から毎年通っている愛知マイスターのSさんも現れました。泉州よりもむしろこちらのほうが知り合いが多そうな感じでした。

8時過ぎに出発しました。

山車が動くと町の人が集まってくる。泉州でもよく見かける光景です。

前より後ろのほうが世代が若いです。泉州で言うとだいたい青年団の世代が後ろを担当しています。泉州の青年団団長や幹部がここ一発気合いを入れるようなことをここでは常に掛け声的に発していました。「若い衆、おまえら・・・」みたいな感じでした。

少し蛇行させるような感じで舵取りをするようです。

山車が高いのでそのままでは電線にひかかります。

さすまたで電線を持ち上げていました。

向きを変えてここで他の山車を待つようです。

反対方向から山車がやってきました。浅井山の山車です。

浅井山の別名は宮本車のようです。

その後ろから西山がやってきました。

寒いような気がするのですが後ろは上半身裸でした。

こちらも後ろで気合い入れています。上に乗っているのは泉州で言うところの十五人組組長とか後梃子責任者に相当する人だと思います。

愛知マイスターのSさんが関係者に声かけてくれて近くで撮らせてもらいました。今回は泉州のSさん、愛知のMさん(堺市の八田南にも参加している)には非常にお世話になりました。ありがとうございました。

山車の上に子供たちが乗っていました。

さあこれから宮入りです。鳥居前に山車が集まってきました。

これから宮入りの坂上げです。場所取りのためここまで撮影して移動しました。その2へ続く

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