「難波戦記」と呼ばれるものには『「大坂冬之陣」と「大坂夏之陣」の両者を取り扱った近世の軍記物』や上方講談に豊臣びいきの「難波戦記」というものがあります。「難波戦記」と表記する場合は、「大坂冬之陣」と「大坂夏之陣」両方の戦の場面を彫ることが可能ですし、「大坂夏之陣」だけで彫ることも可能です。一方「大坂夏之陣」と表記した場合は「大坂冬之陣」の場面を彫ることができず、「大坂夏の陣」の場面しか彫ることができません。
また「大坂冬之陣」と「大坂夏之陣」はあわせて「大坂之陣」と呼ばれています。

そもそも「大坂之陣」とは(以下、ブリタニカ国際大百科事典より引用)

徳川氏率いる江戸幕府が,大坂城(大阪城)を拠点とする豊臣氏を滅ぼした戦い。慶長19(1614)年に行なわれた冬の陣と,同 20年に行なわれた夏の陣を総称していう。関ヶ原の戦い以後,将軍宣下を受けて天下を握った徳川家康にとって豊臣氏の存在は非常に不安なものであった。家康が,豊臣秀吉の子豊臣秀頼に圧力をかけ,神社仏閣の建設によって豊臣氏の財力をそがせるといった政策を実行するなか,方広寺の鐘銘事件が発生,これを契機に豊臣氏を挑発し,徳川氏との合戦に備える大坂城の攻囲に打って出たのが,冬の陣である。大坂城の守りが固く,容易に破ることができなかったため,家康はいったん豊臣氏と講和を結んだが,その間に大坂城の堀を埋め,城郭や出城などを破壊した。再び戦いが始まり,慶長20(1615)年5月8日に大坂城は落城,秀頼は母淀君とともに自殺した。これを夏の陣という。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

「大坂夏之陣」の場面だけで彫っていても「難波戦記」の銘を入れている地車もたくさんあります。彫師さんに確認したところ、「施主からの依頼」でそう表記することがあるそうです。ということで実際、見送りに「難波戦記」と表記している地車の祭礼団体に所属している数人のマニアに確認したところ、「先代もそう表記していたから」とのことでした。

ここからは私見ですが、「難波戦記」と表記する理由ですが講談の「難波戦記」を意識しているのではないでしょうか?一般的には大坂夏の陣では「真田幸村が死に家康が生き延びた」と言われていますが。講談の難波戦記ではその逆で、「真田幸村は大坂夏の陣では死なず、本当は徳川家康が死んでいた」ということになっています。大阪に住むご先祖様たちがそういう思いを込めて、「講談 難波戦記」を意識して「難波戦記」と表記したのではないでしょうか?
いずれにしても「難波戦記」「大坂夏の陣」は地車彫刻として人気の彫り物でよく見送り部分に彫られています。各町自慢の彫り物をとくとご覧ください。


難波戦記

大坂夏之陣

銘で確認できず

和気町はいただいた資料では「難波戦記大坂夏の陣?」と記載あり。銘はなし。
大園は大坂夏之陣と岸和田だんじり会館発行の「岸和田のだんじり」流木町として記載あり。